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8. 作文希望と教育指導

8.2 日本語文法を見直して作文する


8.2.8 「候文」

 「そうろうぶん」と読みます。江戸時代には、公文書・実用文などのほとんどは、漢文訓読法を応用した文語体で書かれました。話し言葉では方言違いで相互理解が困難になる場合でも、文語は、それを克服できて、全国的に通用する便利な書き言葉の文体でした。漢文訓読法で書かれた文語体を日常使う書き言葉に利用する場面、特に相手に自分の意志を伝えるために書く実用文書は、丁寧さを表す方法として文末に「候」を付けましたので「候文」と言います。文語文では、句読点を使いませんので、候があると文の切れ目が判る意義もありました。現代は、文末に句読点を使い、前項で説明した「である調」または「です・ます調」にしますので、候文を見なくなりました(候文の実物を見る機会が殆んどありませんので、コラム8に紹介しました)。一方、多くの人が集まって交流する機会が増えると、共通に理解できる丁寧な言葉遣いの話し言葉が発達します。また、庶民の娯楽にも「語り」を含む芸能に多くの人が集まり、そこが間接的ながら、話し方の教養を学ぶ場になります。二葉亭四迷が参考にした一つに、当時の落語家三遊亭圓朝(1839-1900)の語りがありました。ただし、話し言葉のままを文字並びにするのではなく、質の良い文書に使える口語体を提案したのでした。

コラム8: 候文の見本

図8.1 紀行文日記の表紙
 この道中日記は、筆者の祖父(島田保作)の残した資料の中にあったものです。作者の署名は最後にあって、斎藤昌顕?と読めますが、祖父との関係は不明です。京都・大阪・高野山を巡り、中山道を取って、日光、宇都宮、鹿沼に寄った記述があります。明治維新(1868)の前ですので、まだ鉄道が無い時代の観光記録の日記です。句読点がありませんが、候が区切り記号のように使われています。江戸末期、庶民の旅行は比較的自由であったようです。松尾芭蕉の「奥の細道」(1702)は紀行文学です。庶民レベルでは旅行記を書き残す習慣が普通にあったようです。十返舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」は1802年に始まり、大当たりをしました。その続編さらには、真似した作品が多く出版されました。祖父の残した旅行記は二つあって、明治18年の北海道旅行、明治28年の関西旅行です。ここに紹介した日記が刺激になったので、祖父の資料に含まれていたようです。

図8.2 日記原文の草書体(半紙半分の寸法13.5cm×20cm)

図8.3 上の原文(図8.2)をワープロで書き直したもの

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