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3. 目録の作成からデータベースへ

3.1 文献調査のまとめが最初の目的


3.1.2 本州四国連絡橋の計画時の文献調査

 神戸市の市長であった原口忠次郎(1989-1976)は、神戸市と淡路島とを結ぶ吊橋の計画を、1959年(昭和34)年に政治主導で発表し、その目的のための、文献調査の部署を発足させました。実際に架設が完成したのは、1998年です。足かけ 30年も掛かった理由は、本州と四国とを結ぶ橋と言う、国としての計画に、様々な政治的な駆け引きが行われたこともあります。純粋に架橋技術の面から見て、多くの調査が必要でもありました。吊橋の設計で最も恐れられるのが、タコマ吊橋を落橋させた原因となった風の作用です。日本では、それに加えて、地震対策も重要な要素です。この二つに絡んで、多方面の調査が行われました。調査研究は、土木学会で多くの研究者を集めた委員会方式で討議されました。海外の長大橋の建設は、設計者の主導でおこなわれたことと、大きな違いがあります。このとき、重要と考えられた論文を撰んで、委員にコピーが配られ、また、論文の抄録集を別に作りました。この研究の進め方は、同じ学術的な問題に複数の研究者が情報を共有する、一見民主的な方式です。 1960年代は、まだワープロも、またデータベースの技術もありませんでした。情報処理は手探りで研究されました。委員会の資料は、現在の感覚ならば、情報公開の対象として保存するアーカイブです。当時は、委員を中心とした、限られた人数の中での公開でした。論文コピーを共有する方法として、マイクロフィッシュの利用も試されました。抄録集は、手書きの原稿を青写真でコピーを取って委員に配布しましたが、幾らかの費用をかけて軽印刷でまとめることもしました。この委員会方式で試行した方法は、基本的に、その後のデータベースの開発と利用方法と同じでした。ただし、後者の場合、利用者は互いに独立し、閉鎖的であって、委員会でのような討議の場がないことです。したがって、データベースの作成は、教育と研究に利用して役立てる、公共的な方法を紹介する広報活動が望まれます。これを、民間のビジネスモデルの構築に繋げたいところです。
科学書刊株式会社:電子版 「橋梁&都市 PROJECT: 2011」

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