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3 浮世絵で技術情報を埋める

3.2 開化絵に描かれた橋は残っていない


 浮世絵絵師の巨匠であった北斎は、1849年、広重は1858年に没しています。彼らの作品が残した多くの浮世絵は、当時の名所案内として庶民に親しまれ、現代でも芸術性が高く評価されています。ペリーの艦隊の入港(1853)は、彼らの死後です。江戸時代末期から明治維新を挟んだ前後合わせて約20年は、動乱の社会情勢でしたが、文明開化と呼ばれた時代でしたので、庶民は、瓦版、浮世絵、錦絵などに、今で言う画像情報誌の性格も期待しました。浮世絵の絵師は、欧米起源の物珍しい文物を、奇をてらった画題として取り上げました。中には実物を見ないで、欧米で描かれたイラストを見て想像で描いた作品もありました。橋の話題に限ると、従来の日本の橋は殆ど木橋であって、構造的には種類に多様性がありませんでした。新橋・横浜間の鉄道橋は、当初、すべて木橋で建設されました。石造アーチ形式の構造は、欧米風の都市美を構成する代表的な形式として好まれ、当初は熊本の石工 橋本勘五郎が手掛けました。万世橋・浅草橋・江戸橋・蓬莱橋・日本橋・京橋、そして皇居石橋の建設にも関与したとの説があります。しかし、元の構造は残っていません。
科学書刊株式会社:電子版 「橋梁&都市 PROJECT: 2016」

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