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1. 身近な歴史としての明治以降

1.4 アーチ橋の建設は文明開化の象徴の一つ


 日本では、公共通路として架設され橋は、すべて木橋でした。横浜開港後、明治5年までの短い期間に多くの橋がまとめて架けられましたが、その殆どは木橋でした。寺社の境内や、庭園などの私的な環境では、石の桁橋も見られますが、せいぜい1間(1.8 m)程度の短い径間にしか利用できません。切石を積み上げて、径間にして10 m前後を渡すアーチ橋の建設は、ヨーロッパでは、既に紀元前のローマ時代の水道橋に見られ、中国大陸でも、古くから知られた構造形式です。しかし、日本では、15世紀頃に沖縄に架けられたのが始めです。さらに下って、江戸時代の初期、長崎の眼鏡橋(1634年)の建設が日本内地での石積みアーチ橋の最初でした。江戸時代末期(18世紀の中頃)、九州地方だけに多くの石造アーチが一種の流行のよう建設されました。しかし、九州以外の地には広まりませんでした。その理由は、石工の所属していた藩が防衛上の秘密を保つため、石工の行動を制限したこと、そして、石工も、自分たちの技術の秘密を守るため、排他的な技能集団であったからでした。欧米の都市は、建物や橋に石造のアーチ構造が多く見られます。明治新政府は、多くの鹿児島県人が参画しましたし、地元に石造アーチが幾つもありました。そのこともあって、当時高名な肥後藩(熊本県)の石工、橋本勘五郎を明治4年から7年の間に東京に招いて、幾つかの石造アーチ橋を架けさせました。
科学書刊株式会社:電子版 「橋梁&都市 PROJECT: 2016」

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